老人と愛人

対立の一致

角煮の角って何ですか?

分からないことが多くあります。

ビン・缶の収集日とか、会計が789円のときいくら払えばお釣りが少なくなるかとか。明日が寒いかどうか何てこと知りませんし、人間の足の小指が進化の過程で失われつつあることなんて、全く良く分かりません。ただ、最愛が愛の最上級であることは分かっているつもりです。

そうです、つまり、鞘師里保のことを考えています。そして、僕らはアイドルに何を見ているのだろう、とずっと考えています。(主語を私から我々に大きくするオタク特有の話法)

ハロー!プロジェクトに「もしも・・・」という楽曲があります。その歌詞で「もしもこの星が1日で最後迎えるとしても 面白い話して忘れさせてほしい」という余りに美しい歌詞があります。

僕はこの曲を聴くと、美しく、儚く、そして自らの背負っている罪を感じずには居られなくなります。こんなレベルの論評は今や、yahooコメント欄にも書いてあるでしょうが、アイドルカルチャーが彼女達に少女であることを課し続けているのであれば、そのことの持つ加虐性、女性蔑視的態度には自覚的であるべきと思います。「面白い話をして忘れさせてほしい」と歌う無垢さを、僕らは求めていて、それを彼女達は演じ続ける。その枠の中に彼女たちを閉じ込めているとしたら、それはあまりに残酷であるし、ルシール・アザリロヴィックの『エコール』が描いた世界を再演しているに過ぎないでしょう。そこでは、アイドルは人としてではなくキャラクターとして消費されているに過ぎないし、それ故にこそ宗教的な崇敬との類似性が議論されていた訳でしょう。ただ、個人的にはそんなことはもう語り尽くされ何らの強度も持っていないと考えています。日々、人が人を眼差す視点が増えているように感じますし、であれば、現在のモーニング娘。アンジュルムの様に、女性ファンが増えて、女性の求める女性像を再現していくことが、ジェンダー的態度・在り方として間違っているとは思えないです。

それを踏まえつつ、最近すごく興味深く思ったのはアンジュルムのリーダーあやちょ(と、僕らは少女であることを強要している)のブログです。

「具体的な年齢で物事を考えれば、誰かにとって都合が良いのであろうか?それがあなたへの慰めになるのか?その視点がなければ、私たちの行動を認め合うことができないのか?まるで私たちが行動を起こせないかのような?

そんなに私たちは無垢だと思われているのか?

非常に残念だ」

 

僕は鞘師里保のことを想うとき、彼女を人として捉えていたのだろうかと、考える。鞘師里保はただ一つ正しいですなんて、言えるわけがないし、これ以上彼女を虚像に閉じ込めておいて良い訳がない。アイドルであることを演じ続けろ、とオタクはアイドルに課すが、もうそんな共犯関係に身を投じていようとは思えない。要するに、人は歳をとるしそのことに僕はどれほどの理解を示していたのだろうか、と改めて考えざるを得ないです。(人間嫌いがアイドルを好きになろうとすると、自らの態度に疑問を持ったりするので切ない。)

長年のハロプロオタクほどこんなこと体感的に理解しているんだろうな、と思うし、それでいて常にゼロベースでアイドルを見つめられる彼らのエネルギーにも一定の畏敬を覚えてしまいます。

鞘師里保の愛しさについて長文を書こうとしていたのだが、自分の愛の歪みを実感してしまう結果になった。

 

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はーちん……