老人と愛人

対立の一致

それはちょっとした愛

気色悪い話ですが、個人的には少し驚きの感情を覚えた出来事について。

先日、ハロー!プロジェクトのJuice=Juiceが香港でイベントを行ったようです。詳細は記憶の淵に追いやろうとしているので、あまり書きませんが、端的に言うと、香港の芸能界的な雰囲気が強いイベンドだったそうです。所謂、「喜び組的」な雰囲気を感じ取るのが容易な。実際にどうだったかとか、そう言うことは脳髄を爆音の音楽で封じ込めて考えないようにしましたが、なんというか、人間は愛でのみ生きていると考えている僕からすると、結構シンドイ空間です。

ただ、盲点だったのは、そういう空間に彼女たちが居たとして、それが特段、僕の感情を揺らすとは思っていなかったところにありました。つまり、僕はそれほどJuice=Juiceが好きではないと自分では思っていたんです。アイドルでは一番好きですが、人生のベクトルで考えると、凄く美しい人々であるな、と距離を置いていると自己認識していました。

ところが、彼女たちの香港イベントの詳細を知った僕は、心身があまりに疲弊し、昔読み漁った、ジェンダー関連の著作を思い出して、如何に権力を盾に関係を強要する人間が不当であるか、あるいは、それを是とする人間の未熟さとかそういう事が頭の中でゴチャゴチャと回り続け、Juice=JuiceのブログをF5し続けていました。(だからアップフロント、あの日のアクセスカウンターはバグではない、俺の苦しみだ。)

次の日冷静になって思ったのは、あぁ、僕はこんなにもJuice=Juiceが好きだったのか、という感情についてです。それは多分、愛に似た感情だったと思います。愛って『メバエ』に掲載されている感情かと思ってましたが、こんなところにあったのですね。

それが強者の論理と言われれば、そうなのかもしれませんが、僕は社会など飛び越えて、セカイの中で人は愛し愛されるべき存在であると本気で思っています。歪だからこそ、一方通行の愛は肯定されうると思うし、ゆえに、彼女達の輝きは閉じた瞼を越えて、意味をもたらしていると確信に近い感情があります。

社会は相も変わらず終わっておりますが、その社会が愛を醸成する手助けをするのであれば、愛を信じることも欺瞞となるのか、あるいは、愛は純粋に穢れなく愛なのか。などと性懲りも無く、理論武装で感情を誤魔化そうとしておりますが、今日も生きております。